「アイドル」という言葉の意味と精神的原点について

※こちらの記事は以前、noteに投稿した内容の転載です。

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「アイドル」という言葉


現時代において、アイドルという言葉は、数種の定義の複合体であると言える。
その言葉を聞いて、多くの人が思い浮かべるであろう「アイドル」は、テレビ等で歌って踊る「アイドル」だと思う。
また、原始的な意味で、崇拝の対象になる偶像を意味する「idol」。それが転じて、多くの人に支持される人物もそう呼ばれ、時には、人間以外もそう呼ばれることもある。例えば、釈迦如来像やマリリン・モンロー上野動物園のカンカンとランランも「アイドル」だ。

偶像を意味するidolは、基本的には、物体をさす言葉として扱われることが多い。
キリスト像や仏像など、主に宗教において信仰の対象となる象徴を具現化した物がそうだ。
前述したように、形は違えど、どれも物として挙げることができる。
しかし、こと日本において、芸能一般に当てはまるアイドルが意味するところは、物体を超越した何か別のものとして呼称されるようになっているように思える。
三次元的な物体、または、人間的な肉体自体を認めるだけではなく、本質的なidolである「偶像」の意味するところの域を超える、具体的な実体を持たない概念とも呼べる存在を表す単語になった、と言ってもいい。
(勿論、大元の言語である英語を第一言語とする英米圏でも、人気のある人物をアイドルと呼ぶことは往々にしてあるが、やはりそれは、あくまで特定の人物を軸にした言葉になる。)

 


古くからある「偶像崇拝」という現象も、特定の物体ないし、人物を崇拝する行為であり、ここでも、実像の無い概念に対することとは異なる。
日本文化のアイドルとは、偶像という名で呼びながら、崇拝する対象は偶像そのものでは無いのだ。

一般的に定着している、「アイドルソング(Idol Song)」という言葉からも、それを捉えることができる。アイドル=偶像が歌う歌というように訳すことができるが、そもそも、特定の個人または、物体を指す「idol」という言葉を用いて、大量にあるアイドルの音楽をひとまとめにジャンル化する事はかなり無理がある。
だが、アイドルという一括りにしてしまっている。
つまり、繰り返すようだが、アイドルという存在、定義はもはや、旧時代の意味から変わり、もっと巨大な何かを意味する言葉になった、と考えることができる。
では、その「アイドルという何か」の正体とはなんなのだろうか。

アイドルの追憶


実体を持たない概念が、この世にはいくつも存在する。
例えば、「魂」だ。存在しないとまで言いきってしまうと方々で問題が生じてしまう恐れがあるが、実体を持たないと言っても差し支えないだろう。
前項では、現在のアイドルもまた、実体を持たないと表現した。
しかし、「魂」と一緒の存在とはとても言えないだろう。
そもそも、アイドルという概念が、実体を持たないまま、現在に至ったとも言い難い。
そこで私は、過去の歴史の中に、アイドルの基盤となる人間がいたのではないか、そして、その人間の遺伝子が受け継がれ、今、それが概念と化したのではないのかと考えた。
それを捉えることで、2021年現在の「アイドルという何か」を深く理解することに繋がるであろう、と。

ある程度の知識がある人ならば、元祖アイドルと言われて、パッと名前が浮かぶこともあるだろう。
ザ・ピーナッツ花の中三トリオ、三人娘。もしかしたら、82年組周辺やおニャン子クラブを挙げる人もいるかもしれない。
確かに、それらの芸能人はアイドルに多大な影響を与えた存在と言って間違いはないが、それはあくまで、「芸能」としての影響であり、今日の概念的なあり方には、もっと根本に立ち返る必要があるように思える。

芸能の場において、広く信仰、支持される人物を「アイドル」と呼ぶようになったのは、いつ頃なのかは"正しくは"分かっていない。だが、フランク・シナトラや、ザ・ビートルズがそう呼ばれていたことはよく知られている話だ。
それに触発されて、日本でも「アイドル」という呼称が広まったことは、容易に理解できる。
日本においては、男性アイドルである御三家や、GS勢などがそのようなスタンスをとった。
音楽、スタイルなどから西洋の影響を感じ取れる。

しかし、女性アイドルのアイドル像は西洋諸国の影響下で生まれたものとはなんとも言いがたい。
1960〜70年代の日本の女性アイドルは男性アイドルに比べ、和的な要素が強く反映されている。

これは、日本に、さらに言ってしまえば世界各地に、既に存在していた土着的な姿勢が大きく影響している。
世界各国に存在するシャーマニズム
シャーマニズムの中には、女性を神聖な者として崇める文化があり、現在でも文化の根底に存在するその思想は根強く残っている。
日本におけるシャーマン。それは、巫女である。

皆さんは、「巫女舞」という物をご存知だろうか。
巫女舞、別名神子舞は、文字通りに「巫女」が「舞う」、日本古来の神に捧げる神事、神楽の事を指す。
巫女装束に身を包み、清廉潔白とされる処女8名程がクルクルと廻り、神懸りを行う。

起源は、日本書紀において、天照大神を天岩戸から出す為に儀式を行なったアメノウズメであるとされる。
アメノウズメがどのような儀式を行なったかについては、説明を省かせていただくが、彼女は日本で芸能の女神として祀られている日本最古の踊子と流布している。
踊子という単語のニュアンスは少々、曖昧ではあるが、連なった歴史の中では、ステージパフォーマンスを軸に置いたアイドルは、その潮流に乗っていると言えなくはないだろうか。

少し話を戻そう。
つまるところ、簡潔に言ってしまえば、神事であった巫女舞と芸能であるアイドル、双方の類似している箇所が幾つも見受けられるのだ。
望む多くの人々の前で、決まった衣装に身を包み、決められた人数でパフォーマンスをする。目的は違えど、内容は一致していると言っても過言ではない。

そして、前述したように巫女は処女である、とされた。
巫女は処女で無ければならないという思想自体には諸説あるとされるが、少なくとも、巫女舞が生まれた古代日本では、巫女は処女が勤めていたとされている。
日本は処女信仰が無い国であることは有名であり、百姓などの一般市民は、性に対してかなり奔放だったと言われているが、このような神聖な存在や、位の高い身分では基本的には貞操観念は固かった。
結果的に、不思議と演舞の部分だけで無く、こちらもアイドルの世界に脈々と受け継がれた。

「恋愛禁止」という売り文句を目にするようになってから久しいものの、公にそれを発表しているアイドルはそこまで多くはない印象だ。実際に、個人と事務所の間でどのような契約が結ばれているかは、我々には知る由もなく、実際に処女であるか、なんて事が分からないことも事実。
しかし、何故かファンダムの多数(無論、全員では無い)は、アイドルは清廉潔白な処女と仮定しがちなのも事実だ。
これを察するに、舞う乙女達を処女とした過去の歴史を顧みて、今でもそうであると無意識下に刷り込まれていると言えないだろうか。前述したように、土着的な思想が影響している。
教育の過程で生まれた与太話から生命へと発展した「妖怪」のように、そのファンダム側から発せられる処女信仰こそが、その概念を形作っているのではないだろうか。

余談だが、世界各国に在る神話。その多くには、大洪水の話が記されている。これは、古代以前の地球で実際に大洪水が起こったことが影響されており、各地に散らばった人間たちが神話を作った際に、DNAに刻まれた水害の記憶がそう言った形で著されたと言う説がある。
実体験することも無く、語り継がれることも無くとも、無意識下のDNAにそういった記憶が組み込まれる事が往々にしてあるという事だ。

ちなみに、70年代を代表するアイドル、キャンディーズは大学生3人でデビューした訳だが、3人とも処女である、とアピールしていたという。

※補足になるが、私は決して「アイドルは処女で無ければならない」と提唱しているわけではない事はご理解いただきたい。

歴史の研鑽がある方々は、踊子と聞いて思い浮かぶ人物が他にもいるだろうと思う。
日本史に代表される著名な踊子といえば、出雲阿国だ。
全国津々浦々を練り歩き、子供や女性が演っていたヤヤコ踊りと呼ばれる舞踊を行い、後に歌舞伎と成る、かぶき踊りを創始したとされる"偉人"だ。

出雲阿国の偉業は、単に歌舞伎を創ったことだけには片付けられない。
民のものであった遊び的な要素が強かった踊りを、舞台芸術にまで押し上げた実績こそが功績である。様々な衣装に身を包み、演じたり、踊ったりと言ったような国内エンタメの元祖と言ってもいいだろう。
この部分も、アイドルとの類似性が挙げられる。
巫女舞と異なる点としては、巫女舞が神事であったことに対し、こちらが大衆向け、芸能の部分が根本にあったことである。

出雲阿国は謎の多い人物であり、その出自などが未だに判明してない人物でもある。
例えば、そもそも出雲出身かどうかもわからない、と言った具合だ。
そんな出雲阿国のエピソードの中でも、よく語られるものがある。それは、"娼婦"であった、という事だ。

出雲大社の巫女として勤めて、日本全国に出雲広める為に、一座を立ち上げて歩き回り、ヤヤコ踊りを行なったとされているが、その実態は、巫女でもなんでも無く、舞踊を得意とした旅芸人の一味で、集団での売春をしていたと言われている(勿論、謎が多く諸説とされている部分ではあるが、この話は本筋として語られることもあるようだ)。

出雲阿国は技術は優れていたという。しかし、時代は技術では無く、色を取った。
結局、客は公演の後に春を買う事が目的で、技術面では未熟であっても、容姿の優れた者が流行るようになり、出雲阿国のやり方は陳腐化したとされている。

ここにも共通点を見出せないだろうか。
秋元康が大発明をした、「会いに行けるアイドル」AKB48だ。
技術の良し悪しだけではなく、会える(江戸時代で言えば、抱ける)点に焦点を当てた売り方。
これが功を奏し、空前の大ヒットへと導いたことを考えると、AKB48以降に様変わりしたアイドルシーンは出雲阿国の流れを組んでいると言えなくもない。
アイドルの初期から続く、巫女舞の系譜にあるアイドルとは違う精神性という事になる。

※またもや、補足になるが、「アイドルは娼婦だ」と断定しているわけではないことはご理解いただきたい。

上記の2つは、どう読み取ってみても、完全に対極に位置する考え方だが、どちらもファンダムの願望が強く影響しており、理性(処女信仰)と野性(欲求)という人間の本質のような二面性が関係している。

アイドルという概念の変遷は、ファンダムの思考という名の願望、要は、「理性的でもあり、野生的でもある」ファンダムの思想を大きく反映した形で移り行き、中庸であり、どちら側のニーズを満たすような形の、二面性の"良いとこどり"が現在(というより、AKB48登場以降)のアイドルのスタイルになっているのではないだろうか。